なぜ、日本のアニメには親がいないのか?

クールジャパンともてはやされる日本のアニメーションは、世界中で賞賛をあびています。

 

そんな中、外人さん視点による日本のアニメあるあるが、紹介されていました。

主人公がシャイすぎるなど、外人さんならでの感想があるなか、その1位は、殆どのアニメに親がいないという指摘でした


『ドラゴンボール』の孫悟空、『ナルト』のうずまきナルト、『フルーツバスケット』の本田透には両親がいない。『BLEACH』の黒崎一護と『エヴァンゲリオン』のシンジは母親がいません。

おおげさにいえば、日本のアニメの主人公の50パーセントは両親がおらず、残りの35パーセントは父親と母親のいずれかがいないと考えられます

 

しかし「親がいない」歴史は、日本のアニメの伝統で、高度成長期に幼少期をすごした家訓ニストのアニメ事情は、もっと陰湿なものでした

 

みなしごハッチ・・・・・・いない

アルプスの少女ハイジ・・・いない

タイガーマスク・・・・・・孤児院

ガンダム・・・・・・・・・離婚

母をたずねて三千里・・・・あえない

 

子どもの頃、12チャンネルでやっていたアニメの再放送では、繰り返し繰り返し親にあえない、あるいは親のいないアニメを垂れ流していました。

 

そして家訓ニストがおすすめするブルーな気持ちにさせてくれる1位は、鉄腕アトムの誕生秘話です。鉄腕アトムは、天馬博士が息子の死をきっかけに、息子そっくりのロボットを作り出すところから始まります。しかし、そんなことをしても息子のかわりにはなりません。なんと天馬博士は、アトムを気味悪く感じ、サーカスに売り飛ばしてしまうのです。

その後、お茶の水博士との出会いもあり、サーカス団から脱出し、みんながよく知るアトムになっていきますが、世界初のテレビ向けの短編アニメをもってしても、陰湿すぎる暗さです。

 

家訓ニストの考える日本のアニメに親がいない理由は何点か考えられます。


・アニメの設定上、主人公に影がある(親がいない)ことにしておくと、物語がよく回るとの説。

・不幸な主人公に、より共感を覚えるという説。

・勧善懲悪なお話しよりも、不幸なお話しが好きだという説。


などが考えれます。

そもそも、日本のアニメのもう1つの特徴は、主人公が大人じゃないという点です。西欧のヒーローもので、子どもが主人公なものは見受けられません。子どもはあくまで子どもです。力が強い訳でも、智慧があるわけでもないからです。しかし日本では、伝統的に、桃太郎、金太郎にはじまり、子ども(少年)が、活躍する物語が多く存在します。

 

このことを、アーティストの村上隆さんは、大東亜戦争後、すべての価値観が否定された中、子どもの中に、無垢のエネルギーをみたと指摘し、大人より子どもにヒーロー性をもとめたと解説しています。


分からないものは、扱い次第で、鬼にも神にもなります。自然がその代表例で、ある種、日本では、子どもの中に「自然」をみてきたのかもしれません

 

こども=分からないもの×リモコン=(鬼OR 神)

 

そんな図式が成立しそうです。その証拠に、神社の祭礼なども重要な儀式には巫女さんや、童子が活躍をみせます。これも海外の宗教のなかにはない特徴なのではないでしょうか?

 

そして、親がいないアニメの系譜をまもる巨匠といえば宮崎駿先生です。

 

ナウシカ・・・・・・いない

ラピュタ・・・・・・いない

魔女の宅急便・・・・いない?

紅の豚・・・・・・・そもそも豚だ

もののけ姫・・・・・狼に育てられた

千と千尋・・・・・・豚になる

ハウルの動く城・・・いない

 

トトロの中では、両親が登場しますが、静養中という設定です。しかし、宮崎アニメの面白さは、親がいなくても周囲の人に助けられ、主人公が成長していく過程にあります。そしてどの作品にも、印象的な、おじいちゃん、おばあちゃんが登場します。また、懸命にはたらく庶民を描く一方、お金持ちに厳しく、とくに権力者が大嫌いだということも徹底しています

 

実は宮崎駿さんや、盟友の高畑監督は、学生運動の盛んだった世代でバリバリの共産主義者でもあります。ただし、レーニンが主導した共産党とは一線をひき、助け合いや互助の精神、あるいは自然との共生のなかにマルクスのかかげた理想郷をもとめている点が面白いと感じています

 

宮崎作品の中に描かれる理想郷は、ちょっと貧乏でも助け合いのなかで生きていた、ちょっと前の日本の原風景です。経済学的には、資本主義と共産主義の戦いは決着がついたようですが、日本的な資本主義の理想は、トトロの世界観(ピュアな共産主義)をもとめている気もします


子どもの頃、夕食前の一時に、12チャンネルでアニメの再放送をみるのが日課でした。

なんだか親のいないアニメを見て、あるいは物悲しい終わりの歌を見るにつれ、夕陽が沈む時に感じる物悲しさを ブラウン管のテレビの中で体感していたような気がします


社会には光と影が存在します。光だけ追い求めても、まぶしい未来はやってきません。これを古代の中国では太極といい、日本でも陰陽として、政治や経済、日常の様々な吉凶を占ってきた歴史があります


暗すぎる日本のアニメは、人間のもつドス黒いものを描くことで、高度成長の時代なかで、失ってきた何かのバランスをとってきたのかもしれません。あるいは、原作者の根性がひん曲がっただけかな(>_<)