「昭和の日」に昭和天皇のご遺徳を考える

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

国としての品格は、その国民が自分が偉大なる民族に属するのだという感情によって支えられ、そこから力を得るものである

19世紀 イギリスの思想家「スマイルズ」

 

今日は、昭和天皇のご生誕を祝した旧天皇誕生日(現在の昭和の日)です。

皆様は『天皇』について、どれだけ説明することが出来るでしょうか?

 

FBの投稿では、「天皇制」と発言したところ、日本には、「天皇制」なるものはなく、ただ万世一系、ただおわすだけであるっとご指摘を頂戴しました。自分の不勉強が恥ずかしい限りです。ご指摘ありがとうございました

 

幡谷自身も、うるおぼえのように、ただおわすだけである天皇陛下の存在は、だれも教えてくれません。まして、左よりの思想に縛られている子どもたちが学ぶ教科書には、「天皇家」「天皇陛下」についての記述はありません。もちろん、神話までさかのぼる建国の歴史を記す訳もなく、アイデンティティの醸成に課題があるのが現状です。日本という国の元首は、天皇陛下です。各国の大使が任官の挨拶をされるのも、陛下ですし、また国璽と尊称されるハンコを、国家の重要文書に押す役割も担われています。

 

右や、左の立場の違いは、宗教の自由と等しく、それぞれが信じる真を貫くことが大事です。ただし、現状に不満があるのなら、自分自身が語り部となり次の時代に正しい国史を伝える必要があるのではないでしょうか?

 

『天皇家』は、現存する最古の王朝であり、現存する唯一のエンペラーであり、 現存するただ一つの神話をバックボーンに持つ血統です

 

 民主主義の国が増える中、イギリスを筆頭に国王を持つ国もまだまだあります。では、天皇と国王とは、何が違うのでしょう?天皇についてはemperorと表記します。他の権威と比べるとこんな感じになります

 

皇帝(emperor)≧法王(Pope)>王様(king)> 大統領(president)>首相(premier)

 

で、これを現在の世界情勢に合わせてみると・・・

 

天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)>日本国首相etc(premier)  

 

以上のように、皇帝の称号をもつ『天皇』が世界で一番の権威を誇っています

実際、天皇陛下と他の国の皇族の方が集まる場合、天皇陛下は別格の扱いをうけることが多いようです。また、アメリカにおいても、大統領が正装で出迎えをするのは、ローマ法王、イギリスのエリザベス女王。そして日本の天皇陛下だけです。

 

あらためて、我々日本人はどれだけ「天皇」のことを知っているでしょうか?

画像は、終戦後、傷ついた国民を励ますために、日本全国を巡幸された昭和天皇のお姿です

 

不遜ながら私自身の昭和天皇のイメージといえば、御歳をめした好々爺の印象です。しかし、天皇陛下も、当然、青年期もあれば、子どもの時代もあります。昭和という時代をつくったのは、まぎれもなく、ひとりの「裕仁」という偉人です。

 

今回のブログでは、昭和の日を祈念して、偉人という言葉も薄っぺらく感じる天皇陛下の奇跡のエピソードを紹介していきます

 

 

■マッカーサーとの会談

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大東亜戦争終結後、戦後処理の一番の論点は、昭和天皇の戦争責任についてでした。戦勝国の中でも、意見がわかれる中、GHQのマッカーサー長官は、昭和天皇との会談にのぞみます。

 

会談の前のまで、長官は昭和天皇の責任を追及する立場でした。しかし、会談後は、態度を一変し、擁護する姿勢をつらぬきました。

 

いくつかの回顧録を総合するとこのようなやりとりがあったそうです。

 

昭和天皇:

「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」

 

多くの国の統治者は責めから逃れようと命乞いをし財を守ろうとします。しかし、昭和天皇の多くのそれとは違っていたのです。またマッカーサーは

この言葉に、マッカーサーは驚きました。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていたからです。
 
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」


この時マッカーサーは、次のように返答したという。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(藤田侍従長による『侍従長の回想』)


マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに天皇の手を握りしめて、「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べた。
わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、まったく変わっていた。


会見前は傲然とふん反りかえっているよな態度をとっていたマッカーサーが、会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で、会場から出て来たという。
会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送った。当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ちました。

 

天皇陛下が、無私の立場を貫き、命をとしたこの会談では、食料不足に悩む国民のため援助を引き出すことにも成功しています。戦前、天皇陛下が君臨する政治体制を「国体」と表現していました。この「国体」は神話の世界から2600年間。史学的に証明できる一番古い天皇からさかのぼっても1500年間、たえず守られてきたものです

 

建国からわずか数百年。まだまだ若いアメリカという国にあって、マッカーサー元帥が、陛下の人徳にふれ、赤子のようにひれふす姿は痛快です。

 

昭和天皇は、敗戦の4ヶ月後1946年歌会始で、こんな歌を詠まれています

 

降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ

松ぞ雄々しき人もかくあれ


国体の滅亡の危機から救ったものは、銃でも、爆弾でもなく、陛下のお人柄と、人徳でした。

 

 ■戦後の巡幸

 

 

 

 

 

 

「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、いうことをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ。」

 

昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされたそうです

 

しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかったそうです

 

イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

 

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

 

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?

 

欧米人の常識では理解できないことが起こったのです。

 

また巡幸の際、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかったそうです。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていたと伝えれています。

マッカーサーをとりこにしてしまったように、陛下のもつ「おおみごころ」には万人を包み込む優しさがあふれています。

 

石油も、鉄もとれない日本という国にあって、唯一の資産は、「人」です。焼野原になった国土を再生すべく、奮闘した無名の人々を陛下はたえず励まし、お心をお寄せくださいました。戦後数十年で世界有数の経済大国になった奇跡の源に、陛下の優しさがあったのではないでしょうか?

 

 ■吹上御所のおはなし

 

 

 

 

 

昭和天皇のお住まいのお話しです。終戦後、陛下は皇居内の「ご文庫」という建物にお住まいでした

 

この御文庫、爆弾の飛来を想定して建造したのはいいものの、天井に詰めた砂は建設当時雪が積もっていた砂をそのまま詰めてしまっていて、溶けた水が何年も経ってからコンクリートから浸み出してぽたぽたと落ちてくるありさまでした。

同じく御文庫附属室は地下深くにあったため、そこから伝ってくる湿気も酷いものだったといいます。スーツを吊るしておくと一両日のうちに湿ってしまったのだとか。

 

こんな場所に陛下を住まわせてはおけない、と侍従は御所の新造を提言しますが、陛下は「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」とあっさり却下。

 

では、せめて修理を…と、調査してみれば天井裏からなんとドラム缶2本半もの水が出てきたのです。

これはいかんと再三にわたり陛下に新造を奏上するも、やはり陛下の答えはNOでした。

 

そして日本は戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長期を迎えます。昭和34年(1959年)皇太子殿下(今上陛下)御成婚で世間はミッチー・ブームに沸きますが、そのときですらなおまだ両陛下は御文庫にお住まいになっていました。

 

結局それからさらに2年、終戦から丸16年経過してようやく新たに建てられた吹上御所にお移りになったのです。 吹上御所は延べ1,504㎡。鉄筋コンクリート2階建ての洋風建築で「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」とこの年に還暦を迎えた陛下はおっしゃったのだそうです

 

また1937年、昭和天皇は、ゴルフ場として利用されていた吹上御所内の敷地を、自然林に戻す計画をたて、以後90年近くかかり、大都心に自然がよみがえさえました。その敷地は、115万平方メートル 東京ドーム25個分です。最近の調査では、カワセミやホタル、たぬき、紅糸とんぼ、そして自然の豊かさを象徴するオオタカが生息しているそうです。

  

いまだに多様性を無視し、河川敷をガンガンコンクリートで固める御役人様に比べ、昭和天皇の示されたビジョンには、はるか天より見通すような慧眼を感じます。

 

生物学者としても活躍された昭和天皇は、できるだけ人の手をいれず、そして100年、200年という単位の計画で、都心のど真ん中を森に変えられました。また、一節には、1923年におこった関東大震災の被害をみて、万が一の避難場所として森を残したとも言われています。

  

慈愛と、確かなビジョン。そして行動力に溢れた昭和天皇は、自身のつくられた「森」についてこんな言葉を残しています。

 

「雑草という草はない。どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」 

 

侍従長だった入江相政(すけまさ)さんが昭和天皇の言葉として紹介しています。 昭和天皇の留守中に庭の雑草を刈っていた入江さんに対してなぜ草を刈ったのか尋ねたところ「雑草が生い茂って参りましたので、一部刈りました。」という答えに対して仰った言葉です。

 

昭和天皇のご遺徳はもちろん、今上天皇も、昭和天皇が熱望してやまなかった沖縄への巡礼を実施、またサイパンや、ペリリュー島への慰問も実現しています。

 

巡幸は戦後だけでなく、被災にあう度にお姿をおみせになられます。 震災後の混乱時に、いち早く国民にむけてのメッセージをお出しになり、痛みを共に感じるために、計画停電にあわせて、電気をつかわない生活を実践されていたそうです。

巡幸も、宮城、岩手、福島の3県だけでなく、埼玉、千葉、茨城の被災地もめぐられています。忘れられた被災地といわれる茨城には首相も大臣もくることはありませんでした。しかし、陛下がいらっしゃることになり、その後の復興のスピードが加速的に進んだと住民の方が教えてくれました。戦後の混乱期、そして被災地にあって、国民が傷つき打ちのめされた時、弥勒菩薩のように現れる陛下は、本当の意味で現人神なのかもしれません

 

世界的な権威であり、謙虚であり、政治家であり、無私のひとであり、どれだけ賛美の言葉を並べても、昭和天皇をあらわす言葉がみつかりません

 

昭和の日。昭和天皇のご遺徳に触れ、とてつもない日本の歴史を子どもたちに伝えてあげてください。

 

19世紀 イギリスの思想家「スマイルズ」は、国としての品格は、その国民が自分が偉大なる民族に属するのだという感情によって支えられ、そこから力を得るものである。と述べています。

 

せっかくのゴールデンウィーク。子ども達と、森、川、海。日本の財産を満喫し、偉大なる民族の元に生まれた喜びを分かち合う休日となることを祈念しています^^