平将門と祟りについて

怨霊信じますか?


迷信や怨霊は、ざっくり嘘!というのは簡単です。ただし気にされている方がいる以上、否定できるものではありません。


例えば、結婚式の日どりに仏滅をさけませんでしたか?


合理的には説明できないが、なんとなく日取りを気にしているならば、それは、「迷信」に支配されている証拠です


人は社会のなかで生活しています。無意識でも、多くの方が気にされる迷信には、実は見た目以上の存在感があります。
正しい、正しくないという判断ではなく、習俗習慣として使われていれば、それは、社会の中に「いる」ということではないでしょうか?

 

その昔、荒俣宏さんの原作の「帝都物語」という映画がありました。

帝都(東京)の破壊をもくろむ魔人加藤と、それを阻止しようとする仲間たちの物語です。

この作品のなかのキーとなったのが、平将門の怨霊です。

 

平将門は、平安末期、平氏の姓を授けられた、桓武天皇5世の子孫です。圧政に苦しむ地方の代弁者として国府を次々に襲い関東一円を支配下におきました。その際「新皇」を自称し、茨城県の猿島に独立国を打ち立てるも、朝敵となり、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られています。平将門の戦いは、のちの武士の発生を示すとの評価もあるようです

 

茨城県の坂東市にて憤死した将門の亡きがらが、京都におくられ改めて処刑されたものの、さらし首が飛び出し、茨城をめざしたものの力つき落ちたところが、首塚として知られ、今も丸の内の一画に奉られています


 関東の独立を夢見、敗れた平将門でしたが、その後100年程すると鎌倉に幕府がおこり、事実上、天皇から武士へ政権が委譲されています。また同時代をいきた関東の庶民にとっては、圧政をひく役人をやっつけたヒーローだったのかもしれません。


その後、江戸を収めた徳川家によって保護され奉られた場所が、神田明神であり、また明治になって、天皇が遷都される際には、反逆者である平将門を祭神からはずす処置がとられたほどです。

 

とくに丸の内にある首塚では、首塚の祟りが有名で、塚を動かそうとした大蔵省が、大正12年大臣をはじめ14名が亡くなった他、昭和15年には落雷による火事が、そして終戦後も、GHQの指示で整地しようとしたところ、ブルドーザーがひっくりかえり死者が出たとされています。

 

祟りがあるか、ないか?は別にして、都会の真ん中で、いまも開発をされず平将門の首塚が鎮座し続けているのは事実です。周辺のオフィスでは、首塚にお尻をむけないよう気を配り、日本を代表する有名会社の幹部たちが、年に一回の鎮魂祭をおごそかにとりしきっているそうです・・・

 

全く合理性のない話のようですが、1000年前の「怨霊」を未だに信じている人がいるのです。平将門は、とっくに亡くなっています。しかし、首塚の祟りを恐れる人々にとっては、今も「生きている」のではないでしょうか? 少なくとも更地にすれば何億にもなる土地に塚を遺しているのは事実です つまり将門公の怨霊は、何億以上の怖さで、今の人々の心を支配しています

 

東京駅のほど近く、いま手厚くまつられる平将門の首塚。そして、その本拠地となった茨城、千葉には今も多くの逸話が遺されています

画像は、将門の終焉の地にたつ「国王神社」です。実際には反逆者として処刑された将門を「国王」という名の神社に奉っている処に興味がわきます。この神社は、地元のひとによって、ひっそりと守られた神社です。決して豪華でない社殿ですが、信仰心を感じるスポットでした

 

祟り信じますか?

 

幡谷の曾祖母・あいさんは、守谷と呼ばれる将門とゆかりの深い地域の出身です。

生前の曾祖母は、「成田山にはお参りにいくな!」っとの申しおくりを家族にめいじており、町内会の旅行の際にも幡谷家だけはバスから降りず、家訓を守ったそうです

 

これは、成田山新勝寺の由来に関わる史実で、平将門の討伐を祈願するために建てられたのが、新勝寺。なので、将門にゆかりの深い一族は決して成田山には行ってはいけない!っというのが、あいおばあちゃんの主張だったようです

 

祟りはとくに信じていないけど、念のため幡谷も成田山にはいきません

 

何でも合理的に済む世の中で、人間の小ささを知り、傲慢さを戒めるためには、「たたり」ぐらいあるほうが、人生をを豊かにしてくれます^^

 

あなたの信じる「たたり」を教えてください^^;

 

次回の「たたり」特報は、カーネルサンダースの呪いです!

お楽しみに?否、くわばらくわばら・・・