水戸徳川家の家訓 ~日本を救った偉大な敗者~

画像:晩年の徳川慶喜公
画像:晩年の徳川慶喜公

告発!明治維新シリーズの最終回は、最後の将軍となった徳川慶喜の「正義」を、水戸徳川家に伝わる家訓をつかって証明させていただきます。

 

水戸徳川家は、家康十男・徳川頼房を初代として始まります。一般に御三家といわれ、尾張、紀州と共に、将軍家を補佐する役目として設置されたといわれています。

しかし、家康はある密命を頼房に託していたともいわれ、それが水戸藩の家訓になっていた考えられます。その密命とは、天皇家への尊崇の立場です。これは一種の保険とも考えられます。つまり、家康はあっけなく滅びた豊臣家の二の舞を踏まないよう、天下騒乱が起こることを想定し、子孫の中で、将軍ではなく、天皇を尊ぶ家をつくりました。

 

このことは名文化されませんでしたが、のちに最後の将軍になる水戸家出身の慶喜公の証言や、代々正室を京都の公家より迎いれてきた事実でも証明できます。水戸徳川家の幕末期の血統をみれば、有栖川家をはじめ有力な公家と婚姻関係があり、慶喜自身、将軍家より公家に近親者が多かったのです。

 

200年以上さかのぼっても神君家康につながらない血筋より、公家、つまり天皇家に近い将軍、それが慶喜の特異性です。そして、慶喜には父、斉昭から口伝で授けられた家訓がありました。明治期に遺された証言では、こんなやりとりが記録されています。

斉昭:「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 

ここで、今回のブログの主人公である慶喜について、おさらいしてみましょう。

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生し、以後、一橋家に養子にだされたあと、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)に任じられる。江戸幕府最後の将軍であり、また水戸徳川家にとっても、最初にして最後の将軍となりました。

 

幕府の最後の切り札として登場した慶喜。しかし父・斉昭より天皇を崇拝することを家訓として授けられた慶喜は、偽の勅を操り、天皇を担ぎあげ倒幕をせまる官軍と全面対決することなく大政奉還を実施し、270年の江戸幕府はこうして幕を閉じました。

 

慶喜の秀でた能力は、新政府の桂小五郎をして、「神君家康の再来っ!」っと恐れられました。

生涯、江戸城を出ることもなかった江戸末期の歴代将軍の中で、これだけドラマティックに、そして業績を残した政治家はいません。政治の面では、政権を朝廷に返上した大政奉還の実現の際には、弁舌はげしく、多くの諸公、公家たちを相手に孤軍奮闘した記録が残されています。殖産興業の面でも、慶喜がつくらせた横須賀にのこる舟を建造するドック等は、明治から大正、昭和と、多くの舟の建造をし日本の豊かさを支えました。また、意外なところでは、石川島播磨重工業も、慶喜公由来の会社です。

 

これだけ優秀な慶喜が、戦わずして負けたことにあなたは疑問を感じませんか?

そもそも、慶喜の世界史以上稀な、見事な敗戦がなくして、明治維新も、日本の繁栄もなかったことをあなたは御存知でしょうか?

規格外の怪物 慶喜を語るため、今回のブログでは、日本の枠をこえ世界情勢から語らなくていけません^^

 

当時の世界情勢は、西欧列強と言われた白人による植民地政策の最盛期の時代です。世界の国々の独立が奪われ、完全な形で独立を保ったのは、200余国のなかで、タイと日本だけという状況でした。

 

白人による植民地政策は、狡猾で、また心理をついたものです。まず宣教師をおくりキリスト教を布教させます。この点では、秀吉、家康による布教禁止のおかげで先兵のおくりこまれる危機を脱していたのは幸運でした。次に行う戦術は、内戦です。つまり国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです。植民地化の際、目立った戦もないままなし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労をまっていたからです。白人様は、とにかくずるい(*_*)

 

しかし、日本の場合、イギリス、フランス、ロシアにアメリカ。各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたのに、慶喜公の見事な退却と、徹底した新政府側への恭順の姿勢のすえ、新政府側、徳川側消耗することなく政権が引き渡されます。軍隊だけではありません。なにより庶民、農民、豊かな大地が荒れることなく、次の時代に引き継がれたのです!

家訓をしらない歴史家たちは、慶喜の選択を、弱腰とも批判します。また徳川側に十分な戦力が整っていなかった?というのも間違いで、鳥羽伏見の戦いの時点では、西欧式の軍隊も導入し、最新式の大砲をそなえた軍艦まで所有し、新政府と徳川側の戦力差はなかったものと言われています。

 

しかし、慶喜は戦わなかった。

そのことで、生涯、弱腰といわれ、そしていまなお、慶喜を批判する人。あるいは、無能の将軍との辱めをうけています。しかし、慶喜は悠久の日本の歴史のなかで、負けて勝ったのです。つまり内戦に突入しなかったことで、西欧列強からの干渉を抑えたのです。徳川家は負け日本が勝った。それ以上の勝利があるのでしょうか?

 

戦の中で、どう負けるか?が一番難しい判断です。秀吉は負け戦のしんがり(退却時の最後の一団)をつとめ、信長の信頼を勝ち取り、百姓の身分から、天下取りをする足がかりを築きました。同じように、慶喜は激動の時代のしんがりをつとめ、今に続く日本の繁栄をもたらしました。

しかし、今から約70年前、日本は大東亜戦争を戦いアメリカを中心にした連合国側に、粉々に打ち負かされました・・・。しかし、この時、秀吉、慶喜のように、敗け戦を上手にたたむ「将」がいたのなら、歴史は変わっています。事実、多くの悲劇をもたらした戦争の中で、戦傷者の9割は、終戦をむかえる1年の間の悲劇です。つまり1年、早く終戦をむかえていれば、尊い人命の9割は助かったのです。戦局をみれば、サイパン島の陥落後、本土への爆撃が可能になった時点で、日本の勝利はなくなっていたのです。

 

大東亜戦争の悲劇は、サンパン陥落後の日本に、負け戦を演じる「慶喜」がいなかったことです。

そして、幕末の日本には「慶喜が」いたのです。

 

そんな慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓と、藩校・弘道館。そして水戸の風土であると家訓ニストは断言します

そして、偽勅をあやつるズルい新政府軍より、皇室への尊崇の念があったことも事実です。

勝者によって歴史がつくられる。しかしそろそろ、慶喜公、斉昭公の名誉回復と、その偉大な功績を議論すべき時がきているのではないでしょうか?

 

歴史は勝者によって作られるもの。 

通説とされる「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。

たとえば、大東亜戦争後のGHQによる言論統制。戦後70年でようやくその嘘と向き合うムードになっています。近年では、原子力をめぐる報道でも、さまざまなデマや、意図的に隠された情報が問題になりました。

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

最後に慶喜と天皇家にまつわるエピソードを1つ紹介させていただきます。

維新後、普通の感覚でいうと旧政権のトップであった慶喜が蟄居とはいえ存命していたのは、今の国際情勢から判断しても異例のことです。21世紀になってもアメリカ様は、フセインを殺し、ビルラディンも法廷にかけることなく銃殺しています。これは、明治天皇からの特別な計らいがあったのかな?と家訓二ストは考えます。

そして、慶喜は、77歳まで生き、歴代将軍の中で一番の長寿をまっとうしています。慶喜の敵方であった志士の面々と比べると西南戦争で散った西郷隆盛、暗殺にあった大久保利通、伊藤博文も、テロリストによって殺害されました。慶喜は、偉大な敗者となり、表舞台から去りながらも、自分を捨て、なおかつ最後は、勝ったのかもしれません。

 

明治天皇と慶喜は、明治末期に会食の機会がもたれ、かつての居城、江戸城跡にたつ皇居にて面会された記録がのこっています。また、貴族として最も、位の高い公爵を授けていることから、明治天皇より特別な計らいがあったことは、言うまでもありません。そして、驚くべきことに、慶喜の息子は、大正天皇を支える侍従長に就任し、一番近い側近として、天皇家を支えていったのでした・・・

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

そして、「正義」の人、慶喜は正義よりも、尊い「大義」に生きた人生だったのかもしれません。30歳で就任した将軍職をわずか1年間で瓦解させ270年の徳川政権を店じまい。そして残りの44年間を晴耕雨読の日々で過ごした人生は、見事としか言いようがありません! 

  

温故知新。古きを訪ねて新しきをしる。

あなたは、このブログで何を感じたでしょうか?

そして、あなたは誰に、何を残し、何を渡しますか?

 

歴史の裏に家訓あり。

そんな歴史の1ページも、あなたが遺す家訓から始まるかもしれません・・・

家訓づくりプログラムの受講を改めて推奨させていただきます<m(__)m>

 

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(※元ねた 水戸藩の家訓について、記載されたブログです)

 

常磐神社HPより

http://www.komonsan.jp/kura/post_57.html

 

 

明治34年の頃、私、渋沢栄一(しぶさわえいいち)が大磯から帰る汽車の中で、伊藤博文(いとうひろふみ)公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました

 

「渋沢さんはいつも徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公を誉めたたえておられますが、私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」と話されました。

伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、なぜですか?とたずねました所、

「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に「維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?」

とたずねたところ、

慶喜公は迷惑そうに

「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、幕府をお助けすることは勿論でありますが、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。

と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます」

 

と慶喜公は答えられました。

本当に奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は本当に偉大な方です。と伊藤公が言われました。私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、そのような事があったなあとおっしゃいました。

 

(渋沢栄一著、徳川慶喜公伝・第4巻から。現代文に訳)

 

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コメント: 4
  • #1

    ラックちゃん (日曜日, 09 7月 2017 20:31)

    慶喜公は私がいち番尊敬する方です
    が、あの時戦い、自分の思う理想の国家を作るのも思しろいと、おもいと思いますが歴史が変わりました

  • #2

    sprawdź sam (水曜日, 01 11月 2017 01:07)

    chybotliwiej

  • #3

    tarot miłosny (土曜日, 18 11月 2017 02:31)

    nieliryzujący

  • #4

    毛利 豊 (日曜日, 11 7月 2021 07:54)

    神君家康の叡智が、お家断絶を防いだのですね。「保険」が見事に生きた事例として記憶されるべきです。