日本の魔法 「焼きそば」という魔術

画像:神田明神のお祭り
画像:神田明神のお祭り

1夜12時を過ぎるとき、ひとは無意識にぺヤングを探します。それはDNAに刻まれた古い記憶が、無意識に「焼きそば」を求めるからなのです。

 

今回のブログは、日本の魔法、焼きそばの魔術について、お祭りで食べる「焼きそば」(肉なし)の美味さについて研究してみたいと思います。

 

理屈で語りきれないもの。家訓二ストは、そんなドロドロしたマグマのようなものが大好きです。いい子ちゃんばかりの聖人君主ばかりの世の中は、どこか嘘くさい。反対に、お祭りで買う「肉いり」と書いてあるのにキャベツばかりの焼きそばって妙に美味く感じませんか? あの美味さこそが理屈で語れないもの。誰しもがもつ「祭り」への郷愁。お祭りで食う焼きそばの美味さの秘密を紐解きながら、懐かしくて新しいものを探していきたいと思います。

  

日本には、古来より部落ごとにお社(やしろ)があり、そしてそこには、「祭り」が存在してきました。人間の営みとお社は、共存共栄。たとえ故郷を離れても、お社での夏祭り、あるいは秋祭り。そのワクワク感や、縁日のおじさんがつくる「肉なし焼きそば」の怪しげな雰囲気は、DNAに記録されているのかもしれません。

 

「祭り」の起源として、日本書記には、天の岩戸にお隠れになったアマテラスを誘い出すため、岩戸の前で大宴会をするさまを言い伝えています。神代の代から「祭り」は楽しいものです^^

神輿は神さまの乗り物。秋祭りは豊作への感謝。お正月は歳神さまをお招きする神事。日本のお祭りは、生活習慣に深く入り込み、楽しくもおごそかに日常をいろどってきました。

 

海外でも、日本と同じく精霊?を祀る南海の島々では、水木しげる先生が大好きな妖怪に扮した様々な祭りがあるようです。また、ヨーロッパでも、牛おい祭りに、オレンジなげ、チーズころがし?っと、実に生産性が低く、実にくだらないたくさんの神事が受け継がれています。

 

この「生産性がない」という部分がお祭りの醍醐味です。

 

誰しも日常生活の中では、ルールであるとか、人間関係であるとか、たくさんの我慢が強いられます。精神疾患や、ひきこもり、いじめ等も、そんな我慢のリミットが壊れたしまった現代人の病いなのではないでしょうか? それは、人間がいないっという一言で集約できそうです。

 

東北の短い夏を彩る青森「ねぶた祭り」では、寡黙なはずの東北人が、狂ったように「ラッセーラ~♪」っと踊りまくります。そして、アドレナリン出まくりの祭りの夜、カップルが恋におち、なぜか多い6月のベービーが誕生します^^;

人間の本来もつ豊かさが、「祭り」になり。反対に、人間が貧しい時代、そこに「祭り」がないと家訓二ストは考えます。

 

「人間」が、輝く祭り。

代表的な例では、岸和田のダンジリ祭り、あるいは、7年に一度の諏訪の御柱祭り、いずれも激しく、年によっては死者をだす恐ろしいものです。死んだどーする?というロジックの上側に、死と向き合い、初めて「生」をみる人間の本質があると感じます。生物としての人間が、もつ禍々しい(まがまが)「人間くささ」を時代は必要としています。

 

交通整理をして、無菌室で培養するような祭りにパッションは感じません。逆にとことん狂うからこそ、「祭り」が人々の心を揺さぶるのではないでしょうか? 冷静に考えれば、露店で出される肉なし焼きそばが美味いはずがありません。でも美味い。それは、祭りがつくる、ワクワク感が脳を狂わせているのでしょう^^ そしてそれは恋に落ちる男女の関係でも同じことがいえます。

 

理屈で恋に落ちるはずもなく、必要なものはパッション。そして生物としての人間の輝きです。肉なし焼きそばの例と等しく、山車を仕切る、やんちゃな兄さんのカッコよさは2割増し。祭りの女子は2倍増し。浴衣ならば10倍増しっという黄金の法則に僕らは身をゆだねるべきです。

 

踊るアホに見るアホ~ 同じアホなら踊りゃな損損^^

 

家訓づくりも、90分の「祭り」です。

創る家訓に見る家訓~ 同じアホならつくりゃな損損!

 

家訓づくりで創っていただく家訓に、タキシードは似合いません。あなたを育てたドロドロしたマグマのようなものを、ぜひ次代に引き継いでいってください

 

街に祭りを、家族に家訓を、焼きそばに肉をっ!

そして山ちゃん(仮名)には、恋人をっ(*_*)